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トガニ - 幼き瞳の告発

トガニ - 幼き瞳の告発_d0237041_2115846.jpg韓国光州市の聾学校で、実際に起きた性的暴行事件を元に書かれた小説です。映画化もされていて、韓国内で400万人以上の観客動員を記録し、またこの映画がきっかけとなり、性暴力の罰則を強化する「トガニ法」が制定されるなど大きなセンセーションを巻き起こしました。映画は日本でも昨年ロードショー公開されています。

よく視聴しているTBSラジオ「ライムスター宇多丸のウィークエンドシャッフル」の映画批評コーナー「シネマハスラー」でも取り上げれていて、かなり高く評価されていたので、いつか見てみたいなと思っていました。

先日、図書館でたまたまその原作本を見つけてたのですが、借りようかどうしようかちょっと迷ってしまったので、「決め手」を探すような感じで作者のあとがきを読んでみました。その中にこんな一節がありました。

この小説の構想は、ある新聞記者の一行から生まれた。それは最後の判決公判があった日の法廷の光景を描いた若い見習い記者の短い記事だった。その最後の文章は次のようだったと思う。「執行猶予で釈放される彼らの軽い量刑が手話によって伝えられた瞬間、法廷は聴覚障害者の発する異様な叫びでいっぱいになった。」そのときわたしは一度もきいたことのない彼らの悲鳴を聞いたような気がし、とげが突き刺さったかのように胸が痛み出した。

著者の孔枝泳さんが本作を書く動機になったこの「若い見習い記者の短い記事」は、ぼくがこの本を読もうと思う「決め手」にもなりました。この記事の引用のみならず「あとがき」全般にこの作品のクオリティの高さを確信させる訴求力がありました。と同時に良質な作品だからこそ、安易なカタルシスで読者に媚びるのではなく、むしろ読むことで精神的負荷をも引き受けなければならなくなるのでは、という予感もありました。そして、それは見事に的中します。

さらに目を引いたのは、翻訳者が北朝鮮拉致被害者の蓮池薫さんだったことです。「半島へ、ふたたび」で賞をとったことは知っていますけど、最近は表立った行動を目にする機会もなく、そもそもどういう考えを持った方なのか全く知らなかったので興味が沸きました。

主人公のカン・インホは妻の友人の紹介で霧津(ムジン)市の聾学校「慈愛学院」に就職します。教師を目指していたと言うわけではなく、おまけに特殊児童への教育に携わる資格も持っていない。最初は戸惑いますが、妻からは「バカ正直すぎる、コネさえあれば何とかなる」と諭されてしまえば、働き口を見つけられない彼に他の選択肢はありません。不況下で生活のためならモラル云々は言ってられないとはわかっていても、インホはどこか吹っ切れない思いを抱えています。でも、もちろん彼自身そんな聖人君子というわけではありません。
妻に内緒で水商売の女と何度か寝たこともあれば、事業をしながら所得をごまかしたこともある。出世して外車を乗り回す同級生がどうか早く失敗するようにと心で願ったことや、友達の美人妻に強い情欲をかきたてられたこともあった。
まさに読者の私たち(少なくとも僕と)「等身大」の人物であることが強調されています。そして主人公が等身大であることが、強い感情移入をもたらし、これから彼に襲いかかる様々な難局があたかも自分に降りかかったことのように感じさせる力となるのです。

だから、最初の「異変」に気づいたときの彼のとった行動にも物凄い説得力を感じます。勤めだして早々に礼金のようなものを要求されたり、児童が一人死亡したというのに全く平静を保っていたりと何か異様なものを感じ取りますが、とにかく無難に勤めたいと言う気持ちが強い。そんなある時、女子トイレから悲鳴が聞こえます。
奇声はトイレのほうからだ。ほんの一瞬だが、ふたつの大きな氷山がドスンと衝突するような、激しい葛藤を感じた。この悲鳴に介入したら最後、自分の人生はまったく違った方向に行ってしまうのではないかという予感が閃光のように走った。最後の決定を下したのは、頭ではなく体だった。

「介入したら最後」という確信めいたものを感じた時、これまでの家族との平穏な生活、日常のささやかな楽しみ、将来の夢、こうしたものが全て失われてしまうのではないかと感じた時、自分ならどう行動するか…?

児童たちへの性的暴行が明らかとなり、彼は加害者である校長、副校長ら加害者を告発する戦いに身を投じることになります。

実話を元にしているとのことですが、加害者の児童に対する暴行の手口は想像を絶するものがあります。そしてその被害を訴えても学校と癒着した警察や教育庁の担当者はまともに取り合おうとはしません。警察の腐敗振りは韓国映画の定番モチーフでもありますけど、権力が腐敗することの恐ろしさを改めて感じます。

それでもインホや告発を支援する「人権運動センター」の奮闘により裁判にまでこぎつけ、マスメディアからも大きな反響を呼び起こします。そして法廷シーンはこの作品の最大の見所です。被害者の一人である少女ヨンドゥが、弁護側の仕掛ける巧妙な罠に、読者が思いもよらないような機転を利かせ切り抜ける場面は、読んでいて思わずガッツポーズしたくなりました。ただ、もうこの辺の展開は、これ以上被害者たちが傷つくのが見ていられない思いが強くなり、読み進めていくのが怖くてしょうがなかった。

被害者側が有利に進むかに思われた裁判も弁護側の巻き返しで形勢が逆転していきます。読むほうも胸のつぶれるような思いを味わい、無力感や絶望感に見舞われます。しかし、カン・インホの中には、今までにはなかった感覚が芽生えてきます。彼の心の変化を表現する次の文章はとても力強い響きを持ちます。
カン・インホは何か熱いものが自分の中からとめどもなく込み上げてくるのを感じた。怒りではあっても、ただそれだけではなく、今度の裁判で必ず勝たなければならないという決心ではあっても、必ずしもそれだけではない。<中略>インホはすでに自分がこの子たちとひとつになり、運命を共にすることが決して取るに足りないことではないと思っていた。エサを求めて追われるようにして霧津に来た彼だったが、いま自分の中にある光が差し込んでいるのを感じていた。それは温かく明るくて、彼の存在を厳かに浮き上がらせてくれるような光だった。

裁判の結果は著者のあとがきの文章で紹介したとおり、加害者に執行猶予がついた不当なまでに軽い量刑が言い渡されます。判決に到底納得できない被害者と、インホを始め裁判に協力し解雇された教員たちは、その後も座り込みの抗議行動を展開します。

しかし、そんなインホも最後は戦いの場から離脱してしまいます。自身も裁判で深く傷つけられ、またそのことで家族も傷つき、もうこれ以上戦うのやめて欲しいという妻からの必死の願いに抗うことができなくなったのです。

離脱を決めた直前に、一緒に戦っている人権運動センターの女性ソ・ユジンから、明朝座り込みの抗議活動をしているテントを撤去すると言う情報が伝えられます。それも警察ではなく「撤去要員」が来るとのこと。僕もヤン・イクチュン監督の映画『息もできない』で撤去要員の実態を見ましたけど、ほぼ暴力団に等しく「撤去作業」も乱暴で容赦がありません。

「必ず行く」と約束しながら離脱を決断するインホ。
携帯電話のバイブ音に何度も起こされたのか、トイレに行ってきた妻は少しいらだった様子で言った。そう言われてインホは電話を手にした。ソ・ユジン、ソ・ユジン、ソ・ユジン、ソ・ユジン、ソ・ユジン…不在着信記録が限りなく続いている。しかし朝五時十五分以後はぷっつりと着信の痕跡が途切れている。

身が引き裂かれるような描写です。この行(くだり)で、僕は蓮池薫さんが翻訳しているということを強く意識させられました。自身も北朝鮮から子供を残して日本に帰国し、そのまま留まる決断をした(一時帰国ではなく)時のことと、どこか重なる部分があったのではないでしょうか。(子供たちの帰国が実現するのはその1年7ケ月後です。)

戦いから中途離脱したインホに数ヵ月後ソ・ユジンから手紙が届きます。その手紙の言葉を引用しながらの、蓮池さんのあとがきは素晴らしいの一語に尽きます。
著書は小説のなかで「社会を変えるためにではなく、自らが変えられないようにするために戦う」ことを呼び掛けている。処世のために悪を悪として否定する決然さを失い、権力者一人の人権と社会的弱者一人の人権を同じ重さと思わなくなっている、人々の「変化」に危機感を抱き、一人ひとりの心に警鐘を鳴らしたのだ。ただし大切なのは、その「変化」との戦いが八〇年代までの民主化運動のような、過度に自己犠牲的で非妥協的なものではないということだ。<中略>作品では、戦いの場から中途逃避したことで心を痛めている主人公に、ともに戦った仲間から温かい言葉がかけられる。「ひょっとしてわたしたちにすまないと思っているわけじゃないわよね?短い期間だったけれど、わたしたちはあんたの献身と愛情を忘れてはいないわ」このような寛容こそが悩める現代社会で一人でも多くの人たちを「変わらない」ための戦いに立ち上がらせる鍵となる、これがこの作品に込められたもうひとつのメッセージのように思える。

社会派小説であると同時に主人公の心の機微を丁寧に描いた心理小説でもあります。霧津の町を覆う霧のメタファーは多声性に富み、読者を物語の世界に引き込む呼び水として実に効果的な役割を果たしています。

トガニ - 幼き瞳の告発_d0237041_1634713.jpg個人的には、インホが学校に赴任してきた最初の授業でジャック・プレヴェールの詩を紹介されたことでさらにこの物語にのめりこんで行きました。もちろんここでの描写は素晴らしいのですが、それ以上に僕の大好きな、大好きな、大好きな映画「天井桟敷の人々」の脚本を手がけたジャック・プレヴェールの名前が出てきたことに過剰に食いついてしまいました。そう言えば、この映画の主人公は耳が聞こえなくても楽しめるパントマイムの役者だということも、ひょっとして作者は意識してたかも知れませんよ。

作・孔枝泳、訳・蓮池薫のコンビの作品はまだ何作かあるようなので、是非また読んでみたいです。
by CitizenCotta | 2013-06-12 21:02 | | Trackback(27) | Comments(0)
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