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バーニング劇場版

村上春樹の小説を原作とした映画を制作する予定だったが、突然延期になったことをネットのニュースで知ったのが2年前。そして去年の4月、映画が出来上がっていたことと、カンヌで(パルムドールは逃したが)国際映画批評家連盟賞を受賞したことを同時に知って、それ以来いつ日本で公開されるのかやきもきしていたが、その半年後くらいに日本でも今年の2月に公開されることが決定。

こんな感じでつぶさに動向を追っていたファンとしては、もう「待ちに待った」という感じの映画「バーニング劇場版」。監督は僕が敬愛してやまない韓国を代表する映画監督イ・チャンドン。

公開初日は2月1日で、僕が会社の帰りに観に行ったのは2月14日で公開から2週間くらい経っていたわけだが、劇場の有楽町シネマシャンテは満員で、僕が見まわした限りでは空席はなかった。都内で上映されるのはこの一館だけで、会社帰りに観るにはちょうどいい時間帯の回があるのもこの日が最後、おまけに何かのサービスデーだったようでチケット代が1100円だった。そんな条件が重なったとはいえ、満員の劇場には期待のこもった熱気が感じられ、この映画の注目度の高さを改めて実感した。

この映画には公開前にNHKが短縮版を日本語の吹き替えで放送するという実に不可解な経緯があって、その内容は多少の省略を施して中盤までの展開を見せて、終盤をまるごと切ってしまうというもの。「何でそんな余計なことを!」と不信感をもったのだが、結果的に言えば、映画をより深く味わうためには、少なくとも僕には役立ったかも知れない。

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この映画でまず僕が注目したのは、やはり村上春樹の短編小説「納屋を焼く」を原作にしているということだ。あのつかみどころのない不思議な短編をどうやって映画にするのか。これに関してはかなり大胆な改編がなされている。 ある英語サイトのレビューは見出しで「Lee Chang-dong’s Adaptation of Haruki Murakami Story Is a Mesmerizing Tale of Working Class Frustrations(イ・チャンドンの村上ストーリーの改作は労働者階級のフラストレーションを描いた魅惑的な物語だ) 」と書き、「Murakami’s abstract narrative provides an ideal template ~(村上の抽象的な物語はイ・チャンドンの理想的な”テンプレート”をあたえている)」と評している。まさにそんな感じだった。

ある意味まったく原作とはかけ離れた内容とも言えるが、村上春樹の小説を読んでいる時の浮遊感というかある種の高揚感は、例えばセリフに出てくる独特の表現や、マイルス・デイヴィス(最も著名なJAZZトランぺッター)の楽曲の挿入などにより、様々なシーンで再現されている。

そして「原作」という話で付け加えておきたいのが、アメリカの作家フォークナーの短編「納屋が燃える」だ。主人公が暮らす廃屋のような実家とその周辺の風景、父親の描かれ方などを見るにつけ、村上作以上に影響を受けているんじゃないか思えてくる。おまけに主人公は好きな「作家は誰か?」と聞かれて「ウィリアム・フォークナーです。彼の小説は自分のことのように感じる。」とまで言っている。ちなみに僕はNHK版でこのシーンを見てフォークナーの短編集を買ってみようと調べていたら、その中に「納屋が燃える」というタイトルを見つけてビックリしたのだが。

しかし、この映画は前述した英語サイトのレビューのタイトルにもある通り、韓国の現代の若者たちを描いた物語であって、「原作をどうやって映画化したか」という観点にはあまり意味がない。僕は何よりこの映画は、登場人物がそれぞれに抱えている言いようのない「虚無感」とどう向き合っていったのかを描いた物語なのではないかと思う。だからこそ「他国の若者の話」に留まらず、普遍性のある問題として訴えかけてくるのではないか。

主人公はイ・ジョンス(ユー・アイン)は大学卒業後、アルバイトをしながら作家を目指しているが、心の底から書きたいものが見つからず、生活振りも「格差社会の犠牲者」といった雰囲気が漂っている。

映画の冒頭で彼は幼馴染のシン・ヘミ(チョン・ジョンソ)と再会する。顔を整形したと屈託なく打ち明け、今は「気楽で楽しい」というアルバイトをしながら、趣味でパントマイムの教室に通い、近く貯めたお金でアフリカ旅行に行くなどと話すのだが、なにか生活を楽しんでいるというより、「虚無感」から必死になって逃れようとしているかのようにも見える。

ヘミはアフリカ旅行に行っている間、飼っている猫に餌をやって欲しいと言ってジョンスを自分のアパートに招く。北向きの寒くて暗い部屋だが、天気のいい日は一瞬だけソウルタワーの展望台のガラスから光が反射して明るくなるという。その日彼らはあっけなく性行為に及ぶ。肝心の猫は極度の「人見知り」だと言って姿を現さない。

数日後、アフリカから帰ってきたヘミを空港に迎えに行くと、彼女は帰りのナイロビの空港で知り合ったというベン(ステーブン・ユアン)という青年を連れていた。彼は何をやっているかわからないが、とにかく大金持ちで高級マンションに住み、スポーツカーを乗り回し、夜は仲間と遊び歩いている。そんな何不自由なく人生を楽しんでいるような彼も、やはり「虚無感」を抱えていることが仄めかされる。彼はジョンスが小説を書いていると知らされると「今度、僕の話を聞いて欲しい」と頼み、フォークナーが好きだと聞けばとその著作を読んだりする。そして唐突に「涙を流す人を見ると不思議で仕方がない。僕は涙を流したことがない。」と語る。この辺のセリフの入れ方は絶妙だ。

ある日、ジョンスはヘミに電話で誘われてカフェにやってくるのだが、そこにはすでにベンが居て、店の外で電話をかけている。店の中に戻ってきたベンはヘミに手相占いを始める。彼は彼女の心の中に石があってそれが彼女を苦しめていると語り、目をつぶらせて拾ってきた石を握らせ、再び目を開かせて「はい取れましたよ」とばかりに手を開かせる。彼女は笑いながら「この石どうしたの?」と尋ねる。「さっき、外の花壇で拾ったんだ」「これをやるために?」「そうだよ」「どうして!?」「楽しいから。楽しけりゃなんだってやるよ」。ここにも脚本の妙味を感じる。こんな他愛のない(見ようによっては微笑ましい)やりとりも、この展開の中に挟むことで、ベンの持つ禍々しい雰囲気が見事に表現される。

そして、映画の中盤の山場とでもいうシーンで、ヘミとベンはジョンスの家を訪ねる。3人は屋外のベンチに座ってワインを飲みながら食事をし、ベンは当たり前のように二人に大麻を勧める。ヘミは大麻による高揚感もあったのか、いきなり上半身裸になって踊り出す。夕闇の荒涼とした(郊外というより)片田舎の風景をバックにゆったりとした動きで踊る姿と、その動きに合わせるように鳴るマイルス・デイヴィスの「死刑台のエレベーターのテーマ」のトランペットの美しい音色は、素晴らしい相乗効果をもたらしている。ビデオで撮ったNHK版で繰り返し見てしまった名場面だ。

そして、ベンは突然ジョンスに「ビニールハウスを燃やす趣味がある」と告白する。「2ヶ月に1回くらいのペースが僕にはちょうどいい」などと語り、そこに罪の意識は微塵も感じられない。彼の不気味さが初めて具体的な形となって表れる。「楽しけりゃなんだってやる」。善悪や罪の軽重は関係ない。占いごっこも、大麻でハイになることも、ビニールハウスを燃やすことも、そして恐らくは人を殺すことも・・・。

その後、ヘミは忽然と姿を消してしまう。ジョンスはベンに自宅に招かれたとき、ヘミの「痕跡」を見つけ出し、ベンがヘミを殺害したものと確信する。そしてジョンスは決定的な行動に出ることを決意する。ヘミを奪われたことへの復讐だけではなく、格差社会の犠牲者としてまともなバイトにありつくこともできない状況も、家出した母親が借金で首が回らず「あたしがもう少し若ければ臓器でも売るんだけどね」などと言わせてしまう悲惨さも、目に見えない巨大な敵のせいであり、このベンという謎の男がそれを象徴する存在になっていったのではないか。

ジョンスはヘミがいなくなった彼女の部屋で、無心になってキーボードを打ち込んでいる。決定的な行動を決意したことによって初めて書くべきことを見つけたかのように。僕は前作の「ポエトリー」を思い出す。主人公は、自分がアルツハイマーにかかってしまったことや、孫が同級生の少女を輪姦し自殺させてしまったことを直視できず、花鳥風月を詩に歌って紛らわそうとするのだが、うまく書くことが出来ない。でも、自殺した少女の気持ちに寄り添うことで初めて書くべき言葉を獲得し、一編の詩を完成させる。そして最後の行動に赴く。

3人の登場人物はいずれも悲劇的な運命に見舞われる。ラストシーンも決して後味がいいとは言えない。映画が観終わった直後は茫然としてしまい、うまく考えがまとまらなかった。これは全く希望のない映画なのか(もちろん無理に前向きなメッセージを探すことはないのだが)。

僕はふとジョンスが初めて彼女のアパートを訪れた時のシーンを思い出した。彼女はこの部屋は日当たりが悪いが、一日に一回だけ運が良ければタワーの光が反射して日差しが入ってくると話す。光は希望のメタファーだ。前々作の「シークレットサンシャイン」もそうだった。一人息子を持つシングルマザーが誘拐事件でその子供を殺害されてしまい、そんな彼女に果たして魂の救済はありえるのかといった内容なのだが、ラストシーンで地面を照らす日差しを印象的に映し出す。目を凝らせば希望は必ずどこかに存在する。

わかりやすい救いを与えていないが、イ・チャンドン監督の若者に対する優しい眼差しを感じる。社会の矛盾を否応なく引き受けなければならない若者たちに同情し、生きがいを求めてもがいているヘミや、居なくなったヘミのことを思い出しながら彼女の思いに寄り添おうとするイ・ジョンスを愛おしい存在として描く。ベンでさえ全否定されていないように映る。

とにかく3人の演技は素晴らしいの一言だ。印象的なシーンやセリフも多い。一方で、僕には意味がよくつかめなかったシーンもある(「井戸の話」とか)。イ・チャンドンの映画は見終わった後にもいろいろ考えさせる。後になって「あ、わかった!」という喜びを味わうこともあった。2回3回と繰り返し見た作品もあるが、たぶんこの作品ももう一度、観に行くことになりそうだ。
by CitizenCotta | 2019-02-24 11:02 | 映画 | Trackback | Comments(0)


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